本ページの無断複製や転載は、
著作権上での例外を除き
禁じられています。
 

放課後メイド探偵・番外編
  『彼女が眼鏡を外すとき』


放課後メイド探偵、これまでのお話

放課後メイド探偵 登場人物紹介


1.
 ドアを開けた途端に関春奈(せき・はるな)とはち合わせた。
「わ」
 声と共に眼鏡が灰色の床に落ちる。引っこめるより先に僕の足に当たって、少し弾いてしまった。
「――あ、ごめん」
「いいえ、大丈夫です」
 珍しい早口でさえぎると、ワンピースの裾を勢いに膨らませて眼鏡に駆け寄り拾いあげる。
 無造作に鼻の上に戻すと、「急いでるので、失礼します」肩口で二つに束ねた髪を振り乱して飛び出していった。紺のワンピースに真っ白いエプロンの、いわゆるメイド服姿で。
「……その格好で表に出るなよー……」
 大いに手遅れだと自覚しつつ、一応うしろ姿に呼びかけておいた。
 改めて扉をくぐる。完成したばかりのアトリエには絵画は当然のこと真っ白い画布も画架も絵の具さえもなく、ひたすら閑散としていた。設計段階で『偏屈な芸術家の隠れ住むアトリエ』というイメージを打ち出したとかで、幾分雑に固められたコンクリが剥き出しの床と壁、けれど高い位置に広くうがたれた窓から差し込む朱い陽射しとあいまって、何やら心身が引き締まるような心地がする。真ん中にデッキチェアを運び、かたわらに鞄とビニール袋とを投げ出して座りこんだ。ほけーっと口を開け広げて、やっぱり何もない室内を眺める。――はるか彼方から、石焼きイモの呼び声が微かに聞こえてくるのが、なんだか雰囲気にそぐわなくて素敵だった。のどかな気分になって、僕は軽く体を伸ばす。
 色々な事情から急遽、屋敷の部分的な改装を余儀なくされて、それをジジイ――御子柴威志(みこしば・たけし)に任せた結果がこのアトリエだった。同居のメイド二人にも僕の描いた絵を見せたことはなかったのだけど、うっかり漏らした一言を美羽(みう)――春奈とは別の同居人の方がよく記憶してジジイに密告したらしい。自分の才能をそこそこ客観的に理解している身としては、ありがた迷惑もはなはだしかった――とは言え、こうして形になったものを目の当たりにするとやっぱり感慨にふけってしまう。下手の横好きでも自分の創作の場を持つことは夢だったし、本心としては自分で稼いだ資金で手に入れたかったけれど、些細な述懐に形で応えてくれる人がいるというだけで、何とはなしに嬉しいものだった――こと、長いこと僕はそう言うものに縁がなかったから。

2.
 開けっ放しにした扉から、昨日一日降り続けた雨でいまだ湿気を含んだ裏庭の土壌の匂いが吹きこんできた。布の背もたれに深く体を沈めながら、夏場はちょっと蒸し暑いかな、などと他人事のように考えていたら、扉の影からひょい、っとショートボブの女の子が顔を覗かせて、一瞬たまげる。
「あー、こんなところにいらっしゃったんですか」
 スレンダーな四肢を光陰学園謹製のセーラー服に包んだ樋橋美羽(ひのはし・みう)が、鞄を振り回すようにしてアトリエの中に踊り入った。
「誰もいないから、捜しちゃいました」
「ああ、やっぱり春奈、出てるんだ」
 きょとん、と大きな瞳を見張る。
「春奈ちゃん、雅人様に何も言わないで出かけちゃったんですか?」
「制服のままで、ね」指で頭にカチューシャを添える仕草をしてみせると、すぐに得心して深々と頷いた。
「ま、多分すぐに戻ってくると思うけど」
 体をくるくる回しながら、美羽は物珍しげに室内を観察する。短いスカートから健康的な太股がちらちらと覗いて、どうも視線が下げにくかった。
「雅人様、ここで絵は描かれないんですか?」
 人の苦衷(くちゅう)にはまるでとん着する様子なく、美羽は無邪気に訊ねる。
「折角、こんな素敵なアトリエになったのに」
「だから、僕の手には余るよ」
「そうかなぁ」
 首を傾げながら、僕の傍に歩み寄った。
「――あ」不意に掌で口もとを隠して、美羽は悪戯っぽく笑う。
「なんか、いい匂いがします」
 ばれた。僕はデッキチェアの横に置いたビニール袋を捧げる。
「――ひとつ、食べる?」
「いいんですかぁ?」
「太るかも知れないけど」
 猫みたいに目を三日月にしてみせた。わざとらしく嘆息して、ビニール袋から新聞紙の包みを取り出す。新聞紙をはいで、まだ熱を保ったアルミホイルを、さっさと差し出された美羽の掌に乗せた。
「わ、あ、あつつつ」意味を為さない嬌声を漏らしつつ、美羽はしばしホイルの包みをお手玉する。半分むいて焼き芋の頭を出させたものを、破いた新聞紙で持てるように巻いて美羽に渡した。代わりに美羽がまお手玉している芋を受け取って、こちらはアルミをむいただけで無造作にかじってみせる。
「――手、熱くないんですか?」
「コツと、慣れかな」
 ふうん、と感心しながら美羽は芋の皮をむいて頬張った。口許を掌で覆って、口の中で冷まし冷まし咀しゃくしている。――何とはなしに、気分が良かった。
「本当は、自分の分だけ買って帰り道にこっそり食べようと思ってたんだけど」高じて言わなくていいことまで口走ってしまう。
「ズボンに入ってる小銭で間に合うと思ってたんだけど、昨日春奈に洗濯してもらったの、すっかり忘れててさ」
「雅人様、また」笑いかけて、美羽は眼をしばたたく。
「――え? じゃ、お金どうしたんですか?」
「五千円札で一本買うのは気が退けたんだよ」
 へへ、とちらっと歯を見せて笑った。「ご愁傷様です」
「そういう言い方はやめなさい」
 時々手の中で転がしながら、熱い熱い言うくせに結構速いペースで平らげてしまう。片手にアルミホイルと新聞紙を別々に丸めながら、指先を舐めている美羽を見ていたら、ちょっと不憫になった。
「……もう一本あるけど、半分食う?」
「……わたし、そんな物欲しそうな顔してます?」
 きっぱりと応える。「してる」
「………………頂戴します」
 半分に割って、今度は大分冷めているのでそのまま美羽に手渡した。ありがとうございます、と態度だけはいんぎんを装っているけれど、光が溢れんばかりに嬉しそうな顔をしている。
「女の子って、ほんとに甘いものには目がないのな」
「ほんはほほ」
 口の中に含んだまま喋ろうとして、思い直したように飲み込むと美羽は手を振った。「そんなことないですよー、わたしなんかより、春奈の方がすごいです」
「……そんなに?」
「なんかその訊き方、いやです」ちょっと唇を尖らせつつ、けれど頷く。
「でもほんとですよ。他のものが目に入らない、っていうくらいですもん」
 言ってから、ふと思い出したように首を傾げた。
「――そう言えば春奈、どこに行ったのかな」
「さあ。だいぶん急いでたみたいだけど。ここから出てくるとき、僕にぶつかって眼鏡落としたくらいだから」
「……眼鏡、落としたんですか?」
 随分と訝しげな問い掛け。
「ああ。そんな激しくぶつかった訳じゃないけど」
「それ、変ですよ?」
 最後の一口を味わいつつ、僕は美羽の顔を見上げた。丸めたアルミホイルを掌に収めたまま、美羽は頬に指先を添えている。

3.
「軽くぶつかっただけですよね? だったら、眼鏡は落ちないと思います。眼鏡って、普通自分の顔のサイズに合わせて作りますから」
 美羽は両手をこめかみに運び、眼鏡を外す仕草をしてみせる。
「よっぽどすっごいぶつかり方しないと、外れて落ちたりしないです。ずれたりはすると思いますけど、多分鼻とかに引っかかる筈です。床にまで落ちたなら、きっともう外れかかったか、手に持っていたんだと思います」
「でも、確かに落っことしたんだけど」言ってから、ふと気付いた。
「……あ、そう言えば、手が僕の胸に当たったんだ」
「かけ直しながらアトリエを出ていこうとして、その途中で雅人様にぶつかっちゃったんです、きっと」うんうん、と美羽は腕組みして頷く。
「……じゃ、こんなところで眼鏡を外して、春奈は何をしてたんだ?」
「目薬を注すとか、何か小さいものや近いものを見てた、とか」
 僕は四囲(しい)を見回した。
 完成したてのアトリエにはよく言えば無駄なものが何もなくて、悪く言えばただただ閑散としている。しつらえた棚には誰の差し金かお定まりの胸像が三つほど並んでいるけれど、春奈の背丈だと爪先立ちでなければ近付いて見ることは出来ないはずだった。
「雅人様が手掛けたものでもあれば別だと思いますけど」
 とんでもないことをぬかすな。
「今のところ、ここにわざわざ眼鏡を外して見るようなものはないと思います。ポケットにしまってたメモ帳とかを読んだりするなら、もっと明るいところに行けばいいんだから、あと思いつくのは――」
 すい、と美羽は人差し指を足もとに向けた。そこにあるのは、コンクリ打ちっ放しの灰色の床だけ。
「それも、わざわざ眼鏡を外さないと見つけにくいものなんですから、きっと色も似ていたと思うんです」
 灰色で、小さくて、必死に捜さなきゃ見つからないもの――とっさに思いつく、けれど、どうも春奈のキャラクターと一致しなかった。恐る恐る口にしてみる。
「……小銭?」
「たぶん、五十円玉から五百円の間だと思うんです」
 すこぶるあっさり肯定されてしまった。
「きっと、理由があって早く小銭が欲しかったんだけど、他に心当たりがなかった――」
「待った、美羽、それは変だ」僕は掌でストップをかける。「ここは出来たばっかりなんだよ? 緊急に必要でも、どうしてこのアトリエで小銭を捜すんだ?」
「だって、昨日は雨が降ってましたから」
 ……ふと、片手にビニール袋を提げたばっかりだったのを思い出した。丸めたアルミホイルと新聞紙を突っ込み、絞って小さくする。それだけ時間を稼いでようやく腑に落ちた。
「……ここで、僕のズボンを干したんだ」
「さっきも言いかけましたけど」ブレスレットを軽く鳴らしながら、ぴ、と指を突き立てる。
「雅人様、あんまりズボンのポケットに小銭を入れない方がいいですよ」
 感づくことがあった。
「……着服してるか? もしかして」
「とーにーかーく、ここまではいいですよね?」
 くる、っと背を向けて美羽は強引に話をそらす。
「で、あとは春奈ちゃんがどうしてそんなに急いで小銭を欲しがったのか、ですけど……」
 順調に推論を重ねていたのが不意に詰まったようで、振り返りながら不審げに顎を指先で撫でた。
「単なる集金とかなら、春奈がそんな慌てるとは思えないしお釣りだって貰えるでしょうし……きっと、放っておいたらすぐに払えなくなるとか、買えなくなるようなことだったと思うんですけど……」
「集金とかじゃなくて、急いで小銭を用意する必要があって……」
 腕を組み、僕も一緒になって呻吟する。
「しかも、わざわざ落ちてるお金を捜そうとしたっていうのは」
「そんなに高価じゃなくて、きっとすぐに無くなるものだと思います」
 美羽は鼻の前にフリスビーを描くように指を回していた。その拳の中にまだ焼き芋の屑が握られている。先程絞ったビニール袋を広げて、美羽の方に口を広げて見せた。
「すみませぇん」
 言いながらゴミを入れようとした美羽と、僕は顔を見合わせる。
 期せずして唱和した。
「――あ」

4.
 気配を感じて、これも二人同時に入口の方を見やる。春奈が裏庭の取っ付きにぼんやりと佇んでいた。少し肩で息をしていて、眼鏡の奥の瞳に生気がない。心なしか、ワンピースもエプロンもカチューシャのひだまでも、くたびれ、しおれていた。
「……どしたの? 春奈ちゃん」
「ううん、なんでもないよ?」首を振ったあとの笑顔が虚しい。
「……そう」
 応えて、僕と美羽は視線を交わした。春奈の身に何が起きたのか、容易に想像がつく。ゆえに、その虚ろさがそら恐ろしかった。
 と、不意に春奈が眉根を寄せる。くんくん、と鼻を動かしてアトリエの空気に含まれた何かを探っていた――僕と美羽は、ただひたすら身を強張らせる。
 春奈の瞳の焦点が、僕の上に定まった。後ろ手に組んで、つつつ、と滑るように歩み寄る。デッキチェアごと体を退いて、危うく倒れそうになった。春奈は、僕がうっかり胸に抱え込んだビニール袋を見やり、凝視する。
「……あ、あのね、春奈」
 声が上擦った。メイド服姿の少女は視線を動かさない。
「別にね、春奈を仲間外れにしようとか、そういう意図があった訳じゃ」
 眼鏡の奥から上目づかいに僕を見て、首を傾げた。表情がない。背筋が凍てつく心地がした。僕の後ろに隠れるように身を寄せた美羽が、僕の肩をきつく掴む。
 すい、と春奈は背を伸ばし、退いた。僕達二人を同時に視界に収める距離を取ると、不意に満面の笑みを浮かべる――全く笑いのない瞳で。
「雅人様、美羽ちゃん」陽気で、およそ屈託のなさそうな問いかけだった。「お腹、空いてらっしゃいませんか?」
 ――あとは、推して知るべし。
 

<了>

Home